漫画がアニメ化されるということ

いつもより早く帰宅してテレビをつけたら「ハチミツとクローバー」のアニメのオープニングがちょうど始まっていた。たいへん好きな漫画だし、アニメ化されたのはもちろん知っていたのだけど、特にわざわざタイマー録画してまで見ようとは思っていなかった。
これは別に「ハチミツとクローバー」だからというわけじゃなくて、同じく好きな漫画の「ホーリーランド」が実写ドラマになっても特に見たいとは思わなかったし、僕は漫画がアニメやドラマとなって動き出すということに、それほど興味が湧かないのだ。別に嫌なわけじゃないんだけど、かといってどうしても見たいとはあんまり思わない。

漫画や本のどこが好きかというと、自分のペースでお話を進行できるところだ。余韻を味わいたいときにはページを手繰る手を止めたり、先が気になって気になってしかたがないときには、まだページを読んでいる目が、早くページを手繰ろうとする手を、まあまてまて焦るなと制止するのを感じたり。
これがアニメや映画になってしまうと、お話の進行が、あらかじめ設定された時間に合わせてシーケンシャルに進んでしまう。
もちろんそのシーケンシャル性が、アニメや映画の魅力ではあるのだけど、漫画として既に親しんでいたお話を、自分のものと異なるテンポやペースで展開されると、なんだかどうしても違和感がある。ものたりない。別にアニメやドラマ化されることに反対する理由はまったくないのだけど、かといって積極的に見ようという気もあんまりおきない。

ハチミツとクローバー」のアニメもまた、僕のテンポやペースとぜんぜん異なっていたので、どうもスッキリしなかった。ここはもっと溜めて読んでたんだけどなあ、どうしてこんなに急かされるように通過しちゃうんだろ、あれ、ここは妙に引っ張りすぎだ、さくっとテンポよくパンパンパンと流そうよ…

…ここで誤解の無いように記しておくのだが、アニメでの演出が良いか悪いかを語っているんではなくて、すでに原作を知ってしまっている以上、どうしても自分のテンポやペースとの差に違和感を感じざるを得ない自分の感覚について語っているのだ。原作を知らないでこのアニメを見た場合なら、自分はどう感じていただろう?
原作を知っていて、その読後感を覚えてしまっている以上、それはどうしてもわからないことだ。

そもそも、オリジナルのアニメや映画を見るときでも、僕の場合「さあ観るぞ!」という気合が必要になってしまうのだ。
アニメや映画を見るということは、自分自身のテンポやペースを、ひととき停止させて、アニメや映画のテンポやペースに身をゆだね、シンクロさせるということだ。
アニメや映画だと、音も出来合いのものが与えられることになるので、時間軸・視覚のみならず、聴覚までを先方に委ねることになる。自分の感覚と合わないとますます違和感が増大する。
そして僕には、自分の身をゆだねるには、どうしてもぬぐえないとまどいがある。とまどいをぬぐうために「さあ観るぞ!」という気合がどうしても必要になる。アニメや映画に身を委ね、シンクロがうまくいったならば、あの気合はいったいなんだったんだろうってな感じでようやく楽しめる。
こんなにもたくさんの自分の感覚を、先方に委ねなくてはならないというのは、とても勇気がいることだと僕は感じてしまう。