ミリオンダラー・ベイビー

例によって、ぴあに載っているあらすじくらいしか読まないで見た映画。しかしこれがまたあらすじを読んで想像していたものとは全く違う、良い意味で期待を裏切られる映画だった。
公式サイトはこちら。僕の大嫌いなFlashサイトだ。なのでgooのほうをこちらにリンクします。

「ロッキー」みたいなボクシング映画ではないので、そういうのを期待するのには不向きです。
父親を失った女性ボクサーのマギー、娘を失ったトレーナーのフランキーとの絆を描く映画。恋愛というわけではなくて、お互いの欠けた家族の絆を補完するように二人は結びついている。
そして二人が最後に下す重大な決断。

小説からの映画化らしく、原作本は翻訳されて出版されております。
以下ネタバレです。

ミリオンダラー・ベイビー (ハヤカワ文庫NV)

ミリオンダラー・ベイビー (ハヤカワ文庫NV)

マギーがボクシングでのしあがっていく過程で、描かれる世界がマギーとフランキーの周辺だけで、ジムメイトからの視点もファンからの視点もほとんど描かれないので、こりゃいったいどういうわけだろ? ボクシング映画というわけではなく、この二人の絆を描くのがメイン映画だろうから、焦点をあえて絞っているのかな…それにしても少々カタルシス不足で物足りないかな…と考えていたのだが、予想もしていなかったマギーの事故以降を見て納得した。前半部でそういうのを描いていたら、かえって後半部の焦点がボケてしまう。

全身の自由を失い、片足を失い、ボクシングを失い、家族を失い、残っているのはフランキーやスクラップとの絆と地道に貯めていたファイトマネーだけ。「私を応援してくれた観客の声が聞こえなくなるのが怖いの」(ちょっとうろおぼえ)と、ボクサーとして悔いの無い半生を過ごせたことに満足し、そのまま尊厳死を望むマギー。
キリスト教圏では、尊厳死を肯定的に捉えていると言うのは、かなりのタブーに踏み込んだ映画なんじゃないかなあ。特にカトリックに至っては、未だに宗教的見地から、中絶どころか避妊まで否定されているような状態だし。
一般的な日本人には、尊厳死は、宗教とリンクされて語られる問題ではないので、キリスト教圏ではどのようにこの映画の結末が受け止められているのか興味深いところだ。

話はそれるが、海外のSF小説を読むと、科学的価値観vs宗教的価値観という図式が良く出てくる。科学的態度を宗教への「アンチ」として捉えていることが多い。
無宗教土壌で育った僕(おそらく多くの日本人は同様だろう)には、宗教が「アンチ」の対象になる社会的土壌で育ったSF作家の表現に、しばしばとまどってしまうことがあるのだ。このあたりはもう少し考えてみたいところだ。

「○○できなくなるくらいなら死んだほうがマシ」とは冗談半分には良く言うことなのだが、それが冗談ではなくて、リアリティを持って、胸に突き刺さってくる映画だ。
○○ができなくなったとしても、××ができるから、それで補完が効く…という状況ならともかく、このマギーのように徹底的に失ってしまったとき、どのような決断を自分ならばするだろうかと、どうしたって考えざるを得なくなる映画だ。
あからさまな同情を呼び込まない抑制した演出と演技が良かったです。