ハンス・アルプ展

千葉県は佐倉市川村記念美術館へ、ハンス・アルプ展を見に行った。

http://www.dic.co.jp/museum/exhibition/hans/index.html

千葉県って、東京と同じ「関東」の括りに入るから、なんとなく近いようなイメージがあるんだけど、僕の住んでいる多摩地域からは、距離的には「甲信越」の甲府よりも遠いんだよね…。しかも途中で首都高の渋滞を抜けなければならないし。思ったより時間がかかってしまった。

ハンス・アルプを知ったのは、ダダイズムに興味を持っていろいろ本を読んでいた、生意気盛りの高校時代だった。高校生くらいの頃ってダダイズムの「イズム」に憧れちゃったりする年頃だよね。高橋新吉の初期の詩も愛読してたし。
僕の通っていた高校の図書館にあった、昭和40年代くらいの美術評論誌を、パラパラとページをめくりつつ見ていたところ、アルプの「アルパーデン:アルプ・アルバム」の7枚が収録されていて、それを見たとたんに、心臓を直撃されるようなショックを受けたのだった。特に「海」「アラビア数字の8」。

 

この写真は、今回の図録から複写したものです。クレームがあったら消します。
どちらも茶地に黒で、「海」は逆さU、「アラビア数字の8」は文字通りそのまんま「8」の形が描かれているだけなんだが、躍動感と重さ、存在感をとても強く感じたのだった。ああ、こんなシンプルな形態でもこんなに不思議な感覚を呼び起こせるものなんだ、とショックだった。

対して、立体作品は、生で見たことは無くて写真でしか見たことが無かったのだが、あまりピンときていなかった。ゴージャスというかブルジョア的というか、トゥーマッチ感というか、ルノアールの絵の抽象版って感じを受ける肉感的なラインで、なんかおっさんくさいセンスの形態だよなあ、と高校生の僕は感じていたのだ。


さて今回生ではじめてみたのだけど、やっぱ生で見ると全然違います。ほんのちょっと角度を変えて見るだけで、ぜんぜん異なる表情を見せる。とくにこの「デメテルの人形」はたいへん印象的だった。


能面は演者の演技しだいで表情が変わるように見えるという話を聞くが、それと似たようなものかな。輪郭のかたちのリズム、曲面の陰影が、角度を少々変えるだけであたかも全然別の作品を見ているように思える。
曲面や曲線が澄んだ音色の高い音階を静かに響かせているようで、角度を変えて見るごとに和声の響き、倍音の響きが変わっているように感じられる。これはいい経験をした。

館内の解説にも書いてあったが、どのポイントが「正面」、どのポイントで見るのが「正解」っていうのはなく、どの角度で見てもそれぞれの美の発見がある。
僕は、自分がこれを撮影する写真家だったとするならば、どのポイントで撮影するだろうかと考えながら、作品の周りをぐるぐる回りながら見ていた。すると「この作品として平面に残すなら、ぜひここを主題としてくれ!」と、作品が語りかけてくるように思えるところがある。作品の中で、線と面との関係の緊張感がもっとも豊かに感じられるところだ。例えばこの「デメテルの人形」は、僕ならもうちょっとだけ左に回転させて、もうちょっとだけ目線を水平に近づけたほうがよいんじゃないかと思った。

館内の展示でも、台にプレートが貼ってある面に平行にしてみるのが、学芸員がもっともこの作品が映える方向だったのだろうが、これはけっこう異議を唱えたいところがたくさんあったなあ。なんだかわざわざ平板に見えるポイントを選んでいるような…。


この「一つ目の人形」は、金メッキされているので、周りの状況が映りこまれる。


写真では、撮影者自身が映るのを防ぐために、どうしてもこの角度で撮影せざるを得ないのだが、生で見る分には逆に自分自身を映りこませて見るのがおもしろい。とくに真正面から見たときに、平面部分に映る自分自身と「ひとつ目」部分で映る部分の対比。
これ壁際に展示されていたんだが、そのおかげで映り込みがあんまり面白くないものになってしまっていて残念だった。もっと広い空間の中央付近に置けばいいのに。

その他、照明がストレートすぎるのか、影がぼやけないでクッキリとついてしまっているのが、かなり残念だった。しかも置く場所によっては何重にも重なった影が煩かったりしたし…。僕はライティングの知識は全然無いんだが、もうちょっとなんとかならなかったもんかな。


小学校中学年くらいの子供とその親らしき大人が
「これは何に見える?」「踊っている人!」
みたいな会話を延々していたんだが、それがなんだか気になったなあ。ものを見る喜びのとっかかりのきっかけとしてならば、そういう心理テスト的な「何に見える?」もアリかなとは思うのだけど…。
抽象を「何かを表わしているもの」「言葉で翻訳できるもの」という狭い範囲に押し込めちゃうのっていかがなものか。単純に、かたちそのものの美しさ、面白さをまずは感じたいし、感じるべきなんじゃないかと思うんだけど。
「これは『踊っている人』を抽象的にデフォルメして表わしたものだ」
と納得してしまった瞬間に、美しいものの美しさのひとつの側面、言葉にできない感覚的な面が、意識の中から削げ落ちちゃう可能性があるんじゃないかな。

などと、図録を買って美術館を出て、庭園を散歩しながら考えていた。突然にすごい雷雨が振り出してギフトショップで雨宿りした。傘持ってくればよかった。