ダニー・ザ・ドッグとその音楽

例によって、ぴあのあらすじしか知らないで見た映画。公式サイトも例によって僕の嫌いなFlashサイトだ。あらすじはこちら。

アクションは特にスゴかったり、印象に残るところなどはないのだけど、アクションが行われている場の全体像が確実に把握できるので、見ていてイライラしないのです。
カットが変わろうが激しくパンしようが、今現在の動作が、どのような動作から繋がってきた結果なのかが把握できる。アクションの流れが分断されない。観客がアクションの注視しているポイントがブレない。これは最後までずっと共通していた。

僕はあらすじもろくに知らずに観たし、アクション映画ファンでもないし、もらい泣き映画ファンでもないし、あまり期待に大きく胸を膨らませてはいないニュートラルな立場なので、普通に面白く観られました。
でもたぶんアクション映画好きには物足りないし、権謀術数好きには底が浅いし、ストーリーは予測を裏切ることは無いし、映画を見て泣きたい人にとっては演出が抑制されすぎていたりで、そういうのをあまりにも期待して見に行った人にとっては腰砕けでガッカリなのかもしれない。

僕が一番気になったのは、音楽が全体に饒舌すぎて、そのため音世界にメリハリがいまいち感じられなかった。
その饒舌さがハマるポイント、例えばアクションシーンではバッチリよい効果をあげていたのだけど、音楽がしゃしゃり出るべきところでないところで、しつこく主張しているように感じられることが多く、それがたいへん気になった。

その他、この映画ではピアノ(音楽)が重要なキーとなっているので、その点を注目して書いてみます。以下ネタバレです




直前の話題の続き。例えば、ダニーとサムの出会いのシーンで、ピアノの調律をしているシーンがあるのだが、なんとそこでもうっすらパッド音を鳴らしている。ここはピアノの音が主役になるべきであって、BGMは完全にオフらなくちゃならないところだろう。
ラストの、ダニーが記憶を取り戻すきっかけになった曲をヴィクトリアがピアノ独奏し、母親の記憶とオーバーラップするシーンで、画面がまだピアノ独奏シーンだっていうのにBGMにはすでにストリングスをかぶせてしまっている。これは感心できない。アレンジを加えるならば画面がブラックアウトしてからでしょうここは。

音楽がオフになることがめったになく、いつでも何らかの楽音としてなっているので、アンビエンスなどの環境音は大幅にオフられている。そのために場の空気感が希薄になっている。
音楽がしつこく感情を演出してしまっているのだ。感情を演出するという面においては、しつこいながらもよい効果をあげていたと思うのだが、感情を表現するよりも場の空気を表現すべき、音楽は引いて、アンビエンスに主役の座を明け渡すべきだったシーンは数多かった。
見終わったとき、たいして音量も大きくないのに、どっと耳が疲れていた。

ダニーがヴィクトリアにピアノを教わるシーンをもっとしつこく描いても良かったのに。音を出すことの喜びから、ダニーは抑圧されていた自分を取り戻すわけなんだが、あの程度の描き方では、それが記号的・類型的にしか観客に伝わらない。「ああ、音楽を通してヴィクトリアと心が通うことによって、自分を取り戻していったってシーンね」みたいに。
学校の授業程度でしか楽器を演奏したことが無い観客にも、楽器で音を出すことそのものの瑞々しい喜びというのがどんなに強烈なものであるか、もっとなんとか伝えようとしたほうがいいんじゃないかな。

学校の授業での音楽って、音を出すことそのものへの喜びって、あんまり感じさせてくれなかったからなあ。みんなで一斉に同じメロディをリコーダーを吹いたってなあ。音が重なっていくことから喚起される喜びって、学校の授業でめったに味わったことが無い。
例えば、和音の構成を3から4になったときの、たった1音加わるだけで表現力が数倍に広がる驚きとか、ぜひ小学生のうちに体験しておくべきだと思うのだけど。

話は戻して、ヴィクトリアとダニーがピアノを連弾するという、まさしくそういった意図のシーンを演じていて、その意図は充分伝わってくるのだが、もうちょっとしつこく描いておくべきだった。ダニーが心を取り戻していく必然性が、それでより強調されるはずだ。