夏のぬけがら / 真島昌利

いま少年マガジンで連載している「トッキュー!!」で、大月から羽田の救難基地まで100キロを24時間で行軍、というのをやってる。高尾山口駅、日野橋、狛江市役所前などのチェックポイントさえ通過すれば、どのようなルートを通ってもOK、というルールの行軍だ。
このあたりは僕の土地勘のある範囲だ。徒歩ならば、たぶん日野橋までは、下手に小細工せず、R20をそのままいくのが最短かな、と予想していたのだが、やはりR20に沿って現在は八王子に到達している。見慣れたR20沿いの風景が次々に描かれていくのでおもしろい。

自分の記憶や感覚とリンクして、あれくらいの勾配の坂道が、あれくらいの距離続いて、そのくらいの距離が続いた後、平坦地に出て一息ついて...などと、キャラの行動が、なまなましく頭の中でマッピングされていく。これはおもしろい。
しかし土地勘のない人から見たら、例えば大垂水峠のだらだら続く登りの感じが、いまいち伝わらりきらないんじゃないかという予感もある。あるのだが土地勘を持ってしまっている僕には、その推測が正確であるかどうかを確かめるすべはない。


さてここで思い出すのが、リリースされて以来10数年聴き続けている、真島昌利の「夏のぬけがら」だ。

夏のぬけがら

夏のぬけがら

中央線・京王線周辺を舞台にした曲が多く、歌詞がメロディに乗って聴こえてくるたびに、言葉からなまなましく、風景や温度や湿度の記憶が立ち上がってくる。
カローラにのって」を聴いて、日野橋を渡り、多摩ニュータウンが見える、あっけらかんと開かれたその場所の、真夏のむんむんと暑く、無味無臭な郊外の空気や温度や湿度、実際のそれを僕が知っていることが、僕にとってこの曲を特別なものにしているんだろうか、たぶん知らなくてもこの曲の伝えたい空気や温度や湿度をそれなりに感じ取ることはできただろうが、これほど特別なものになっていただろうか、たぶん僕が日本語の分からない外国人だとしても、この空に声を放り投げるような真島昌利の歌唱に心ひかれたことだろうと思うが、これほど特別なものになっていただろうか。

僕は歌詞はわりあいどうだってよくて、歌はまず楽音の一部であるべき派で、よい歌詞であることにこしたことはもちろんないけど、音楽にとってファーストプライオリティじゃないよねとはずっと考えていて、音楽から歌詞だけを取り出してあーだこーだ語るのもそれはそれで面白いのかもしれないが、あーだこーだ語りたい人があーだこーだ語る気のない人を非難したり批判する態度には、長年違和感を感じていて、もちろんいまでもそう考えている。
のだが、この曲を聴くたびに、僕の中でなまなましく立ち上がってくる真夏の日野橋の感覚、日野橋をバイクや車で通るたびに僕の中で立ち上がってくるこの歌のなまなましさ、これらは「知っているもの」の特権だ。それは認めざるを得ない。真夏の日野橋を知らない皆さん、この曲の真の魅力を理解できていないかも知れませんよ、どうだうらやましいでしょう?

でも「真」ってなに? 「理解」ってなに?