夏のぬけがら / 真島昌利 その2

以前に書いた内容の続きです。
僕はこの曲の舞台になっている、日野橋近辺を昼間にしか通ったことが無くて、その感覚があまりにも強烈なので、この曲を口ずさむときはどうしても脳裏に真夏の昼間の光景が浮かび上がってきてしまう。
しかし口ずさんでいてふと気がついてしまった。「夜が〜君の顔をしてる〜、ってあれ? この曲の舞台、夜じゃん!」と。なんということだ。
そんなわけで今回は音楽から歌詞だけ取り出して、あーだこーだ書きます。引用的に微妙なところなので、怒られたら削除します。

それにしても真島昌利のシンプルで力強い歌詞ってスゴいです。シンプルなだけあってスッと脳裏に入ってくる。夏のぬけがら先にあげた「カローラに乗って」を例に挙げれば、いまとなりのシートで寝ているのは「僕の想像の中ではとても優しい君」と「本当は意地悪ばかりの君」との間にいる、どちらでもない君だ。君が目が覚めたら僕は「想像」と「本当」の間で、たたかわなければならないんだけど、いまは「夜が君の顔をして」いて「夜がねがえりをうってる」。
…このザックリとした思い切りのいい力強い擬人化、めちゃくちゃイマジネーション膨らむではないですか。「眠っている君」を「夜」の一言に集約しちゃうってすごいよね。

文章で読むのではなく、メロディに乗って逐次言葉が運ばれることを意識していると思われる歌詞も数多い。HAPPY SONGS「朝」が最も印象的で効果的。
「破れたポスター/の中の男が/見えない帽子を/被る」。要は「ポスターの上部が破れていて、男がなにやら、帽子を被るような手の動作をしているのだけど、帽子は見えない」ということなんだろうけど、ゆったりしたメロディに乗って、この順序で言葉が送り込まれると、このポスターを眺めている者の主観・視線の動きが、実によくつたわってくるよね。
この曲は叙情をなるべく排した情景描写だけで、見事に情を叙している。「昨日の雨は余韻を残し 街路樹を輝かせてる」「ミルクの瓶の曲線に沿い 光が転げて落ちていく」見てくださいよ、この瑞々しく、シンプルに力強く「朝」を表現する言葉を。

しかしまったく残念なのが「理不尽を乗せリムジンが行く」という、リフレインでの語呂合わせだ。ここでいきなり丸裸の「情」を(しかも語呂合わせで)突きつけられるので、ズッコけてしまうのだ。急に緊張感が解けてしまう感じ。
その「理不尽」さを、例えば「カローラに乗って」で言うところの「夜が君の顔をしてる」と「夜がねがえりをうってる」みたいに別パターンで語っていれば、唐突感が薄らいで情景描写とバランスが取れたと思うのだけど。