ぺるそな / 鬼海弘雄

鬼海弘雄の"PERSONA"という写真集の中から、抄録されていた数枚が気に入って、そのためだけにめったに買わない写真雑誌を買ったのだった。しかしこの写真集はたしか1万円くらいする、高額なもので、ちょっとこれは手が出せないよなーと残念に思っていたのだ。
ところがそれが「普及版」ということで、新たな作品(新作、ではなく過去作の追加だろう)を加え、\2300円で出ていたので、大喜びで買ってきた。

ぺるそな

ぺるそな

この、浅草で定点観察的に撮影された、人間図鑑的ポートレートは、被写体の人間としての否応なさを、そのまま否応なく写し留めている。
カメラを被写体に押し入る手段として用いて、被写体の本性を暴き立てたところを写し留めようとしているわけでもないし、かといって被写体を作家の意図に沿うように、貶めたり美化しようとしているわけでもない。
被写体に対する写真家の眼は、否定も肯定もなく、ただ人間に対する好奇心に満ち溢れている。好奇心、って言葉はニュアンス的になんかイマイチなような気がするのだが、かといってそれに代わる、いい言葉が思い浮かばない。
被写体には、端的にいえば、どこか奇矯な人たちが多いわけなんだが、写真家の被写体に対する視線は常にフラットだ。人類愛やら社会的弱者への同情やら憐憫やら共感やら、あるいは嫌悪感やら社会的告発やら露悪趣味やらは、僕にはこの写真から感じとることはできない。写されているのは、被写体の人間としての、否応もない人間っぷりのみだ。

同様に、写真家の被写体それぞれに対する視線も常にフラットだ。
「紙バッグに植木鉢と蚊取り線香の大箱を持っていたひと」も「カルチャー・スクールのビデオ講座に参加しているという主婦」も「辛いので辞めようかと迷っている北洋漁船員」も「千年以上由緒ある家柄の出だという婦人」も「御みくじを丹念に読んでいたひと」も「アニメの主人公と同じ髪形をしたひと」も「男親が待望のひとり娘だというこども」も「赤いタオルにルーズソックスの高校生」も、写真集内では等しく、それぞれの社会的立場や価値はみごとに消滅している。
誰もが等しく無価値になっている、ということではなくて、誰からも「価値」という属性が消滅し、不要になった状態で写真として定着しているのだ。

上述の「」で囲んでいるのは、写真それぞれにつけられているタイトルっていうかキャプションなんだが、これがまたすばらしい。言葉と写真がどちらかに従属したり、どちらかを支配したりすることはない。写真とキャプションとの関係もやっぱりフラットだ。言葉は写真を見る読者の、視線の最初の取っ掛かりどころとして、名脇役に徹している。
実感してもらえるかどうか微妙な喩えなのだが、鉄板にドリルで穴を開けようというとき、最初からドリルを使っても成功しない。最初にポンチを打って、その小さな凹みをガイドとして、ドリルの先端を沿わせることによって穴を開けるものだ。
この写真集でのキャプションは、読者の視線のためのポンチ穴として、でしゃばることなく、控えめに、しかし分かち難いものとして機能している。

いま今我々が生きているこの世には、いろんな人がいろんな人生を送っている。
ということがよくわかる、いつまでも見飽きない写真集です。
一言でまとめてしまうと、めちゃくちゃつまんなそうですね。