鈴が鳴る / 夢路行

本棚の整理中、夢路行の「鈴が鳴る」を10年位ぶりに読み返した。買った当時、20代の頃は、物語の舞台になっている島の「島な感じ」に魅せられて単行本で買ってみたものの、あまりにキレイすぎる人物たち(主に男子生徒)や、悪意や誤解の気配が見えないハートウォーミングな世界に、違和感を感じていたのだった。

のだけど10年位後の今、読み返すと、胸に不純物を残さずに染み込んでいくキレイな暖かさが、普通に心地よい。鼻のつまりが抜けていくような、スーッとした読後感をステキに感じる。
考えてみれば当たり前のことなのだが、例えて言えば、暖房するための装置に対して「冷たい風が出てこないのでダメ」などと批判したって、何の意味もない。
温かくもあり冷たくもある自然環境を再現することが目的の装置に対してなら、そのような批判はありえるのだけど、部屋を暖める暖房装置のような目的を担わされているこの漫画に対して「暖かくキレイな非現実的な世界」と批判したって、ピント外れなことである。

この例えで続けて言えば、この暖房装置のような漫画では、暖まり過ぎないように、酸素を取り入れるために、ときおり空気を入れ替える必要があるわけだ。
この漫画で不満なのは、その空気を入れ替える窓を開く役割を、主人公でよそ者の、入鹿先生が一手に担ってしまっているということだ。それをアンバランスに僕は感じてしまい、舞台となっている世界から、キレイ「すぎ」・暖か「すぎ」な印象を受ける要因となっている。
「暖かくキレイな非現実的な世界」自体は、今では気持ちよく胸に染み込んでいくのだけど、その「すぎ」な感じは、やはり今でも違和感として残ってしまうのだ。

その点「世界最速のインディアン」は、空気の入れ替えが絶妙なタイミングで絶妙な量行われて、実に感心したのだった。
この映画、もし「鈴が鳴る」を買った当時に観ていたとしたら「バートの周りがイイ人ばかりでリアリティが無い」と感じてしまったかもしれない。いまは「周りが引き込まれずにはいられないバートの熱意」と受け取るのだけど。