ピアノの森

漫画で描いたり、言葉で語ったりすることはできる「誰もが引き込まれずにはいられないピアノ演奏」を、どうやって映画で表現しているのかが気になって見た映画。

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映像として見てみれば、丁寧につくられてるなーと感心はしたのだけど、なんだかいろいろ納得いかない映画だった。
転校してきた雨宮がピアノをやっていることを知ったカイが、雨宮を森のピアノに連れてきて、雨宮に請われて演奏を披露するのだが、その曲がなんだか妙に神秘的で大仰な「いかにもその場を演出するにふさわしい」ものであった
そのカットだけ取り出して見てみれば違和感は無い曲なのだけど、映画の文脈の中として考えてみれば、あそこでカイが演奏すべきはああいう曲では無い。雨宮との出会いの時点ですでにカイが成熟してしまっているように受け取ってしまう。

原作のこの場では、阿字野が編曲した「茶色の小瓶」を軽やかに弾いている。この曲ならば映画でもこの後に語られるように、カイの音楽知識が学校(小学5年生)の授業に限定されているという設定に矛盾していないし、なによりいかにもこの時点のカイが楽しんで演奏しそうな曲である。また原作では「茶色の小瓶」が阿字野や雨宮がカイの才能に気づく重要なきっかけの伏線にもなっている。
「神秘的な森のピアノ」を表現したいという意図はわかるのだけど、この時点で優先すべきはそこではないのでは?

そんな感じで、原作漫画からの映画化としてアレンジするポイントが、なんだかズレていると思われることが多いのだ。まともで普通なクラシックピアノ演奏者としての成長過程のイメージから逸脱するようなエピソードを、かなり意識的に選択して省いているようだ。
そのため、純粋培養のピアノエリートである雨宮が、野生の天才であるカイに対して抱くコンプレックスを、説得力をもって納得することが原作よりも難しくなっている。

雨宮はカイの演奏に「どうやったら自分にもあんなに人を感動させる演奏ができるようになるんだろう」と思い悩むのだが、映画でカイと雨宮の演奏を聴き比べる分には、そんな圧倒的なまでの差を観客は感じることはできない。実際のところ。
スポーツじゃないんだから数値として客観的に優劣が測れる訳でもないし。どうしたって単なる主観から免れ得ない。どっちも充分すぎるほど上手くね? としか思えない。
雨宮が「負けた」と自覚したのだから、そりゃ確かに「負け」なんだが、観客がそれで納得するかどうかはまた別の話だ。
漫画や言葉なら、雨宮の自覚はそのまま読者の感情とイコールとなりえるのだが、実際に音として聴こえてしまう映画では、どうしたってそう簡単にイコールとして納得するわけにはいかないのだ。


森のピアノを弾いている時、ホールの響きが付加されていることが多いことに違和感がある。神秘的なイメージを醸し出すためだということはわかるのだけど、かえってその場違いなホールの響きが、森の中に残された、木漏れ日や月明かりに照らされるピアノというシチュエーションのシュールさを阻害しているようにも感じられてしまう。
例えば前述の雨宮との出会いシーンだとしたら、弾きはじめてからカイが演奏に没入するにつれて、次第にイメージ音としてホールの響きを付加する(それによって雨宮にとって終生のライバルとなることを予感させる)ようにするのはどうだろうか。

この他にも響きについては、ちょっと引っ掛かるところが何点かあった。
音楽室であんなに足音が響いているのに声はすっぴんだったり、逆にあの深い森の中で狭いルーム系の響きが声に付加されていたり。

「防音されている」はずの阿字野の練習室の中で、屋外の虫の環境音が聞こえてくるのも違和感大。天窓から差し込んでくる月明かりの下にピアノを移動させて、カイが森のピアノを弾いているつもりになって没入している時に、イメージ音として虫などの環境音を入れるのならよいと思うのだけど。