所有せざる人々・闇の左手

以前ニコラ・グリフィス「スロー・リバー」を読んだ時に、「フェミニスト小説としての側面も強く持っているらしいのだが、その手のをこれまで読んだことは無い」と書いたのだけど、そういえば、ル・ヴィンの「闇の左手」はまさしくその類に含まれるものだった。「スロー・リバー」みたいに、あからさまな意図が鼻につかないので、つい失念していた。

両性具有人類の社会と、地球人とのカルチャーギャップばかりに僕は目が行ってしまっていたのだが、そういえば「両性具有人類の社会」を描くことを試みるということは、フェミニズムについて語ることを試みることと共通している、のかもしれない。
と思って久々に「闇の左手」を読み返してみたのだが、なるほどそのような視点でも読めるな、とは客観的に思うのだけど、なにせ男に生まれて得したと思うのが、一人旅していても変な目で見られないことと、立ちションができるということくらいしか思いつけない僕なので、相変わらず主観的には他人事感が否めない。

ところで「闇の左手」に対してフェミニストから「作中の両性具有者がすべて"he"で呼ばれている」という批判があったそうなのだが、なんだか原則論的で理念先行で実効は二の次な主張だ。
もし代名詞が"she"であったら、地球人で男性のゲンリー・アイとゲセン人のエストラーベンが人類未踏の氷原を逃避行中に、エストラーベンがケメル(両性具有人類の発情期)を耐える場面で、否応も無い人種差にアイが改めて衝撃を受ける描写の効力が弱くなってしまうではないか。理念はどうあれ実際の表現において。


そういえば同じル・ヴィンの「所有せざる人々」でも、ウラス社会とアナレス社会との対比で、比較的あからさまにフェミニズム観点で描かれていたなあと思い出し、こちらも読み返してみる。

読み返してみると、直裁ではあるけれど、やはりル・ヴィンらしく教条的ではないので、鼻につかずに読める。
「所有せざる人々」も「闇の左手」と同様、あるシチュエーション下で、どのように社会は存在するのか、しうるのかというテーマと僕は読んでいるので、wikipediaで書かれているように「ユートピアを描いた」とは、とても考えられない。
ル・ヴィンはいつでも「何々はかくあってほしいけれども、こうなりうるだろう」とは語っているが、一度たりとも「何々はかくあるべし」と「べし」で語ることはない。
「かくあるべきユートピア」を描くことはない。人間が単一の個人のクローン集団で無い限りはユートピアはありえない、それは嫌というほどわかっている。読者は嫌というほど思い知らされる。しかしそれでもなお、という理想主義がル・ヴィンには明らかに残っていて、それが「所有せざる人々」や「闇の左手」の力強い背骨になっていて、読者の胸を強く打つ。

「所有せざる人々」でも「闇の左手」でも、物語の最後に、未知への好奇心に満ち溢れた、未来から目を離すことの無い、新世代(物語内での)の若者が登場する。それがル・ヴィンの「しかしそれでもなお」という理想主義指向や希望の強い表れなのだと思う。
僕はファンタジー風の修辞に昔からアレルギーが強いので、いまだにル・ヴィンのSF以外は読んだことがないのだけど、おそらくそのあたりが強く支持される理由なのだろうな。今度こそゲド戦記あたりから読んでみようと思う。