生誕100年 ジャクソン・ポロック展

http://pollock100.com/
東京展に行ってきた。
中学生のころPlayer誌に載っていたギターのペイントの記事で「ポロック風のドリッピングに挑戦してみよう」的な記事があって、それがポロックを知ったきっかけだった。おぉこれはカッコイイと思ってさっそく真似してみたのだが、まったくイイ感じにならなかった。一見誰にでもできそうで、実際やるだけなら簡単なんだけど、ちっともイイ感じにならない。なんで?と思ったのだが、まあいいやこれが才能の差ってやつだろ、とあっさりとあきらめてしまっていた。

生でポロックを見てようやくわかった。あのオールオーバーな平面はかなりの奥行きを持っている。その奥行きについてよく言われる「重層的」ってやつ、それはそのとおりなんだけどただ重層させればいいってもんじゃないんだよね。
絵の具そのものの重層からの奥行き感もあるし、ドリッピングのスピード感のコントラストによって生じる奥行きもあるし、絵の具の質感(マット、グロス、ちりめん皺)によって生じる奥行きもあるし。特に最後のは画集だとほとんどわからなかった。生で見なければわからないことってある。

初期から末期まで通して出展されていたのだけど、見終って最初に感じたのは「手癖感・手慣れ感」がほとんど感じられなかったことだった。特にドリッピングは技術的に上達すれば、手癖・手慣れでそれっぽくできてしまいそうに思える。なのに少なくとも今回の出展を見る限りでは、そういう感覚を受ける作品はあんまりなかった。

街の絵画クラブとか写真クラブとか、あるいは全国的には無名だけど地域の名士的な画家(ルオー風だったりマティス風だったり、、、)の展示を見るとつくづく思うのだが、手癖・手慣れで作られたものには、なんというか特有の「おっさんくささ」がある。それっぽさを醸し出せたらOKで挑戦も開拓もしてない感じ。中学生のころの僕はそういうのを「おっさんくさい」とよく考えずに切り捨てていたけど、案外的外れではない気がした。それっぽさを醸し出そうとして技術的にできないのもなんだかなあとおもうのだが、それっぽい段階で終わって満足してしまっているのって、なんだかかなりおっさんくさい。

リッピングだけでなく、ミロやピカソやクレー?の影響を受けてるっぽい作品でも同様に感じる。どこか不器用な感じがする。技術的な巧拙は僕には判断できないのだけど、印象として受けるのは「そんな器用な人じゃないよね」という感じ。ミロやピカソって、同じ人類とは思えない感じがするのだけど、ポロックは同じ人類の延長線上にいそうな感じがする。

その不器用さが、技法的には誰でもできそうなドリッピングをはじめたとき、いい方向に作用したのかなあ、と思った。