山羊の羊の駱駝の / 大島弓子

昨日「謎が謎のままである」ことについてちらっと書いたのだが、それで思い出したのが80年代後半の大島弓子の漫画だ。特に「山羊の羊の駱駝の」とか「ダリアの帯」とか。

なんでこの登場人物は唐突にこのような発想をしてしまうのだろうとか、どうしてこの物語はこのように展開してしまうのだろう、とか、考えれば考えるほどわけがわからなくなっていく。特に後半数ページの駆け上り(駆け下りかもしれない)の跳躍っぷりときたらとんでもないものがある。最後は結局、ぽーんと放り投げられて終わってしまう。

読んでいる僕は五里霧中という感じだ。五里霧中という感じなのだけど、その霧の不思議さや美しさを楽しんでいる。
そしてもしかしたら僕が謎だと思っていることは、何らかの言葉による解釈が可能で、それでスッキリと霧が晴れるように読み解けるものなのかもしれない。
「かもしれない」ことはわかっているのだけど、せっかくこの霧の美しさを味わっているというのに、余計なことはしたくないなあという気持ちもある。
霧が晴れたあとのスッキリした視界も、それはそれで美しいものなのかもしれないが、不思議さを楽しむことはもうできないのかもしれない。

霧を晴らす呪文を見つける努力は尊いものだが、「見つけた!」と思っていたその呪文は、実はその世界から霧を晴らす呪文ではなくて、本人も気づかないまま別の世界に移動してしまう呪文であるのかもしれない。
あたかも五里霧中の世界を一瞬でクリアにするというような売り文句の呪文には、眉に唾をつけて対峙したほうが良いのではないかと思う。